ちょっとスピリチュアル…かもしれない

メインブログの中から、スピリチュアル色のある記事を抜き出しました。なにかの専門家ではありません。日常の中で感じることを淡々と綴っています。数秘術やオラクルカードにはちょっと興味があります。

 

生者と死者の安らぎと無事を祈ることについて

メモとして…。

 

先日、ふと悩んだことがありました。

自分は無宗教ですし、特別な信仰を持たない人間です。

けれども自分の愛する人や大切な人の「無事を祈りたい」ということはたびたびあるのですね。自分のことはあまり祈らないのですが。

そういう場合に「どこのなにに対してどういうふうに祈ればいいのか?」という疑問でした。それと故人の供養についても…。

 

相談にのってくださった方はじっくり時間をかけて解答をくださいました。

非常に長いものなので、そのうちの一部だけメモとして転載しておきます。

本来は私以外の方が読まれてもあんまり意味はないのかもしれませんが、もしもどこかに同じような悩みを持たれた方がいらしたら、その方のために…と思いました。

 

 

 

以下、いただいたメッセージになります。

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この度は、真摯なメッセージを本当にありがとうございます。
ご自分を投げ打ってでも奉仕したいという思い、それは博愛の精神と呼ばれるものです。

偉大なる方々、また霊性の非常に強い方々は、時に精神の均衡を崩し、現代では、そこに病名がついてしまうのですが、古来では、その精神を病気という形で括ることはありませんでした。

藤本様は非常に稀有な魂をお持ちでいらっしゃいます。
「心の知恵」というものをお聞きになる力が備わっております。

おそらく、感じるべきことを頭で考えることが以前よりは少なくなり、心の奥の直感に従えるようになってきたのでしょう。

そして、その直感は間違ってはおりません。

 

 

 

〈魂のもつ力〉
永遠なる知恵と真理を見出す力

〈魂の使命〉
心の中の精神法則から導かれる、崇高な知恵に従って生きること

〈魂の課題〉
率直な感情表現、完全主義、自己不信

〈使命と課題へのアドバイス〉
あなたの使命を克服するには、理想主義、他者の意見といった信奉を捨てて、自分のありのままの感情を尊重できるようになる必要があります。
感じるべきことは頭ではなく、心に湧き出す感情を見つけねばなりません。

 

 

 

ご自分には霊的な力はない、とおっしゃっておられましたが、
実際は、あなた様の魂には特殊な霊性の力が宿っております。

それは癒す能力ともいえます。

 

ですから、あなた様の場合、祈り、癒す対象はご自分で構わないのです。

ご自分が癒されることで、そのエネルギーが人々を癒す力となります。

 

たとえば、
両手を胸の前で合わせ(指を組んでもかまいません)、
目を閉じ、深い呼吸をし、あなたがエネルギーを届けたいという人のイメージを持ち(イメージは具体的でなくてもいいのです。その人の特徴、色、あなたがその人を認識できさえすればなんでもかまいません)、言葉や象徴的な印象で祈りを捧げるのです。

(言葉であれば、「無事でありますよう」「癒されますよう」など)
(象徴的な印象とは、「癒し」が青い玉、「無事」が大きな光、などご自身でしっくりくるイメージのことです)

この祈りは10秒程度でいいのです。
時間の長短は、エネルギーの作用に関係がありません。

 

そして、できるなら一日のうち、どの時間帯でも結構ですから、3回行うことを習慣にしてください。

 

これは、あなたの霊性をもってすれば、充分に効果的であり、おそらく、あなた自身さえも癒してくれるでしょう。

 

繰り返すことで、あなたの霊性は特に明確さを増していくことでしょう。

祈りに儀式などは本来はいらないのです。
神殿なども必要ないのです。
「形」ではありません。

 

あなたは自分に霊性を備えておられるゆえに、それを否定していたのでしょうね。
ですが、これからは、ご自分に宿る崇高なエネルギーをお信じくださればいいでしょう。

この短くともパワーのある祈りは、ある種の秘儀として細々と伝えられてきたものです。

 

宗教には、実質的な力を持つために、富と権力が必要であり、ある意味ではビジネス的に現代では成り下がりつつあるのですね。

 

本来の祈りとは、実際はこのような簡単であることを人々が知ってしまえば、宗教のパワーが失われてしまう危険性があるために、真実、効果のある祈りはこうして、少数の霊性を持つ人々の中で連綿と受け継がれてきたわけです。

 

 

 

そして、供養ということですが、これこそあなたの直感でよいと思うのです。
立派な儀式や供養よりも、その心がもっとも重要であるからです。
古来、人は何も飾り気のない穴の中に、死せる肉体を放り込み、それを供養としてきたのです。

 

その供養にも、「役割」というものが持たされてしまい、死せる肉体を神聖なものとして扱わざるを得ないような教義を化してきた歴史があります。

 

誰もが本当は矛盾を持っていいのです。

 

肉体よりも、その精神と魂こそが人間の本質ではなかったのか?と。

死は瞬間的に肉体から、数十グラムというささやかな物質的な重さを失わせます。
それは、古来では、魂の重さと言われてきたものです。

生まれ出る瞬間に、その数十グラムが加わり、
死と共にそぎ落とされるのですね。

ゆえに、肉体の供養ではなく、まさに、お心こそ本来の供養のあるべき姿だといえます。


最後に、
絵をお描きになっていらっしゃるといっていらした。
これは、あなたの本来持つ能力の活性化、そして運命に沿った方法と合致していますね。

それをご自分で見つけられたということに、私には、あなたがすでに魂の声を聞き始めているという感覚を覚えるのです。

素晴らしい魂をお持ちです。

物質的に「何か」をするのではなく、あなたの持つ偉大な霊性を持って、祈りを届けることが、どんなことよりも、あなたにとっての大切な人々を、また全ての人々を、正しい道へと導いていく使命を帯びているということを、魂はあなたに語っているのです。

 

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あらゆる道がひとつになっていくヴィジョンがありますね。

生来、お金儲けには執着があるタイプではなかったようです。お金儲け楽しくないし… (^_^;) 楽しいと感じたことを感じたままに伸ばしていけばいいんだなあ、と思います。

 

数秘の方も非常に近い結果になっていて、もろもろの結果の統合というか、向うところが見えるのは不思議な感じがします。

 

 

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ホロスコープで見た いままでの30年ちょっとのこと

 

10月16日の記事の再掲です

 

30年以上かな?久々に作ったホロスコープ

 

20代の頃、私もいろんなものに興味があって、心理学的なものもそうですが、その当時は細密な占いともあんまり自分の中で境界がなくて、ともどもにその関係の本を読んでおりました。

で、ふと昨日、そういえばホロスコープってどうだったかな?と思いました。よくテレビや雑誌に載っている「星占い」というやつ、あれは太陽のことしか見ないのが圧倒的に多いので、日頃はまったく気に止めないんですよ。…というよりまったくアテにも参考にもしていません。(そもそも見ないし)

20代の私が齧った頃には、惑星の位置やハウスの位置、角度などすべて手計算で、ホロスコープも手書きでした。面倒でした、とっても。

それがですね、昨日なんとなく「ホロスコープ作成」を検索してみたら、生年月日と時刻、出生地のみを記入すれば匿名でホロスコープを作成してくれるところ(本当にあっというまに)がいろいろありました。

名前も足跡も残さなくていいので、久しぶりに自分のを作成して遠い記憶とネット状のサイトを辿って読み解いてみました。(こういうことには熱心だな、と自分でも呆れますが、こういうことは不思議に頭に入るのです)

ホロスコープ作成サービスはいろいろありますが、「ホロスコープ作成」で検索してくださればたくさん見つかります。あえてリンクはしないでおきますね。

 

相反する分野が近づく不思議

正直、20代に見た内容なんて忘れています。それでも大雑把に診て、人生の3/4くらい来た現在に振り返ると、ホロスコープの示唆するものって、やっぱり3/4くらい当たってる気がします。…っていうか、そのままに歩いてきたような感じがしました。若い頃には全然ピンとこなかったことも、いまではよくわかります。


正直なところ、エゴグラム診断とか、INFJタイプとかの質問に答えて結果で分類される、統計学的なものの結果と、古来からある占いで、細密なホロスコープとか、数秘術とかの結果がほとんど違わないものになっているんですよね。これはある程度の年齢になって照らし合わせてみて、初めて気付くことなのかもしれませんが。

まあ、占いは統計学とも言われていますが、なんだか本当に科学的かつ論理的なものと、オカルト的なものが近づいていてしまうという現実って面白いですね (^_^;) もともと私個人の中では両者に大きな違いとか、区別がなかったんです。

…というか、両方があって、初めて人間全体のことがわかるみたいな感じもありますね。それでいながらあきらかに科学的根拠はないでしょう、という治療法なんかはわかってしまいますし…。(下手に信じると害になるだけ、とかいうのは非常によくわかります)だから現代医学も薬の使用も必要不可欠です。ただ、それに対して、ちょうどいい量や種類や方法を見つけるのはやはり自分自身なんですよね。

…うーん…。なんだろう?自分自身が非常に曖昧な場所にいる病気なので、それに対してもちょうどいいベストバランスな場所を探すのが本能的になっているといいますか…。


 

おおまかにホロスコープで見る自分のこと

 

他人と同じであることを嫌い、何をするにもひとひねりを加えないと気が済まない。…そうだよ。オリジナリティは大事。自分流の生き方を貫こうとする傾向、っていうのは我々世代には強いらしいですが、私はそれに加えて同じ傾向がもっと強まる要素が重なっています。


第10ハウスに「天王星」がある人は、社会の枠にはめられるのが大嫌い。会社組織で働く、口うるさい恋人や配偶者……そういったものが何よりも苦手。感性も独特なので我が道を行くのが正解なタイプ。…その通りですね(ーー;)

つまり最初から「はずれないといけないレールの存在」なんてないわけです。「人は人、自分は自分」芸術的センスに恵まれ、技術分野にも才能を発揮。組織に所属せず、自由な立場でフリーランスが向く。…やっぱり…。

若い頃は個人主義的傾向が強いが、年齢を重ねるにつれて「自分の能力を生かして社会に貢献したい」という気持ちが強くなり、社会を変えるような運動に興味を持ち、仲間と行動を起こすこともありえる。…もっと元気だったらそうしたいけど…(ーー;)

 

直感で生きる人間らしいです

どのテキストというか、参考になりそうなサイトを見ても、占星術以外のところでも「直感に従え」とあります。現実でも最近そう言われることがとても多いのです。もともと直感が鋭いらしいです。


年齢とともにさらに鋭くなるので、あんまり迷わないだろうとも言われます。でも左脳が働く人間なので、ちゃんと考えますけどね(^_^;) 裏付けというか、そういう感じで。バランス感覚もいいらしいですし。

直感と分析が両立しているらしいです。まあ、そちらを伸ばせば学者肌にも職人ぽくもなれるけど(これはうちの家系の特質に近いなあ)、そっちじゃないほうが向いてたみたいだし…(^_^;) 細かい作業や福祉や医療分野、伝統工芸かや心理学や精神世界の仕事にも向くようですが…。だいたい全部になんとなく関わっているけど、でもどれも専門にはなりませんね。

自分自身に対しても批判的になる傾向があるので、いまいち踏み出せないところもあるそうですが、今以上に押しが強くなってもいいのだろうか??…と思ってしまうのがその表れなんでしょうね…(ーー;)

小難しい理屈をこねまわすのはまわりにまかせておけばいい、とか書いてあったりして。…いや、さすがにそれは無責任になりそうだから嫌だ。

常に上を目指して向上し続けることが出来る。永遠の未完成、これ、完成なり…か。なんだかすごいな。

 

別にホロスコープなんか忘れて生きてきたのに、ここいら辺まできて、一致する度合いをみたら面白いです。80歳くらいになった時、再度みて見ればもっと面白いかもしれないですね(^_^;) 

 

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気分転換に無料姓名判断してみた(本名です)

 

我が家は代々、子供が生まれて、名前をつける時には、前もって候補をいくつか

絞ってから、姓名判断してもらってから、決めることになっております。

 

両親や私と弟、それに甥や姪もそうやって判断してもらっています。

 

どうしてわざわざ姓名判断するのかというと、人生でなにか困難があった時
「名前が悪いせいだ。だから不幸だ」なんて「つまらないことで悩まなくて

すむように」とは母の談。

 

確かに「いい名前」とわかっているだけで、悩みはひとつ減るかもしれないなあ、

と思いますし、自分の名前、ひいては人生を好きになれますね。

両親からの最初の贈り物、心遣いがありがたいです (^_^)

 

 

さっきYahoo!からのメールを見ていたら「無料姓名判断」というのがあったので、
ちょっとやってみました。あくまでも無料のだけね (^_^;) 

 

charge.fortune.yahoo.co.jp

 

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もともと「いい名前」とされているだけに、悪い結果は出ませんね。なるほど、
そのとおりでございます、という感じ。

 

これだけわかったら確認が出来た意味で私には充分なんですね。
あとの未来は自分で作って行きます。

 

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「楽観的とは違う。大局を見ている」というのも「なるほどなあ」と思って

しまいました。

確かに私は楽観的というのではないと思います。

 

物差しの目盛りを長くしたり短くしたりする視点の変化の柔軟性はあるかもしれないなあ、と思います。

 

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うん、…名前ってお守りのようでもあるよね、と感じます。