ちょっとスピリチュアル…かもしれない

メインブログの中から、スピリチュアル色のある記事を抜き出しました。なにかの専門家ではありません。日常の中で感じることを淡々と綴っています。数秘術やオラクルカードにはちょっと興味があります。

 

イマジナリー・フレンドの底力を実感するとき

 

イマジナリー・フレンドとはなんぞや?

 


イマジナリー・フレンドとはなんぞや?

 

多くの子供が幼い頃に持っていた自分だけの「空想の友達」というのが基本的説明です。決して異常なことではなくて、正常な発達にかかせない要素だと言われています。
大抵は成長するにつれて消えていくものらしいです…。

 

が!多くはないけれども、大人になってもイマジナリー・フレンドを持つ人もいます。私もそのひとりです。


前の記事からなんとなく続きます (^_^;)

 

choispi.hatenablog.com

 

 

いろいろ検索してみたけど、やっぱりYukiさんのサイトが一番細やかで詳しかったです。お時間があれば是非目を通していただきたい記事の数々。

 

イマジナリーコンパニオン | いつも空が見えるから

 

私とYukiさんは共通点が多くて、持病に悩まされていたり、絵を描くのも文章を書くのも好きだったり、お互いにHSPでもあって、さらにいまだにイマジナリー・フレンドを持つ人なのですね (^_^)

 

一説には子供の頃に寂しい思いや辛い思いをしたことがイマジナリー・フレンド誕生のきっかけになったりすることもあるようですが、子供時代に寂しさやトラウマを残すような体験をしていても、必ずしもIFを持つようになるとは限りませんし、逆に私のようにわりと幸福な子供時代(病弱だった以外は)を過ごしたにも関わらず、いつのまにか気がついたら「いる」人もあります。

 

 

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いつのまにか「いた」 思春期の出会い

 

私の場合は幼い頃に出会ったわけではなくて、出会いは思春期(中学生くらい)の頃でした。もしかしたらその頃が私の人格形成に大きな意味があった時期だったのかもしれませんが、ふと気がついたら「いた」んですよね。

 

まず最初は「男の子になった自分」が。体調のこととかあって、女の子でいることが辛いと感じていたのかもしれません。

 

その私の中に現れた同年代の男の子はしごく身軽で自由でした。(現在のタケルの原型かな)男の子目線で眺める世界も新鮮でしたし。

 

それをきっかけに私の中で彼の物語が生まれ、取り巻くキャラクターたちも生まれて、独自の生い立ちや心情を語り始めて、彼ら彼女らもまたごく自然に私に融合していきました。もともと私の中にあったものが可視化(でも自分だけ)されていったのかもしれませんが。

 

私の中には男の子目線もあるから、ジェンダーフリーというか、そのあたりの不自由な枠は存在しないのですね。

 

私が把握出来るキャラクターが増えていくにつれて、老若男女の幅もぐんと拡がります。彼らは勝手に行動するから意外なカップルが生まれたり、予想外な展開が始まったり。自分の頭の中の創作世界のくせに自分ではコントロールしがたいのです。で、漫画でも描いてみたら、「ええ~!そういう展開になるの??」と驚くばかりですが、きちんとラストのつじつまは合っていたりします (^_^;)

 

キャラクター(あんまり深く理解していないものをこう便宜上呼んでおきます)とイマジナリー・フレンド(こっちはもう歴史も背負ってるし)とを合わせると、相当広い目線が成立しますし、いろんな方向からものごとを眺めるのに大変役立ちます。

 

 

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結構不器用な私たち

 

ただ、困ったことにあんまりはっきりイマジナリー・フレンドの主張があると、頭で作った話に出演してくれる子がいなくなるんですよね。…というか、即席のキャラが作れないんです。

 

「…困った。誰か出てくれないかな?」「演技でいいならやらなくもないけど…(のり気じゃなさそう)」…そういう感じなので、私も漫画を仕事に選ぶのは到底無理だよね、とわりと早い段階(20代)で諦めました。あとは同人誌でほそぼそと描いていましたが。

 

さて、不器用なのは私かIFかどっちだろう??

 

基本的に私とIFの会話はあくまでも脳内会話です。独り言は言いません。

 

 

でも、一番の親友がやはり漫画を描く人で、IFを持っていたので、信じられないことにIF同士の恋愛まで始まってしまって、私も楽しかったけど、混乱もしました。時々、どちらの感情かわからなくなったし。

 

おまけに合作イラストを描くとなると、しょっちゅうイメージもシンクロしていたので、あの時はちょっとしたテレパシーみたいなものも働いていたような気がします。脳って不思議だ。(彼女の存在も特別でしたが)

 

いまでも彼らの全部が私の中に納まっているとは思えない。私の脳と部分的に重なっているけど、頭の上に彼らの世界っていくつか重なり合って存在してるよ、絶対。…そういう感覚 (^_^;) 私がチャンネルを合わせるだけでいつでもキャッチ出来るし、必要な時はさりげなくフォローしてくれますし。

 

 

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精神面の手助けは大きいと思う

 

今回、相当なダメージを受けたと思っていたうつから、ものすごい早さで浮上出来たのも彼らのおかげだと思います。私の中でバランスを取るべく、IFたちが働いてくれたんだと思います。

 

薬は使っていません。いつもとまったく同じですが、同じままで立ち直れたのは自分でもすごいと思っています。

 

ひとりでいてもまったく孤独を感じない(IFがいるから)、精神疾患視野狭窄になるのは常ですが、それを修正してくれるのがIFの広い視野だと思っています。辛い時でもなんとなく余裕とかユーモアとかが働くのもIFのおかげですね (^_^;)

 

私にとって、そういう存在がいるのは非常な僥倖だと思っています。彼らがいない世界って考えられないな。実際にいない人のお話だと、ものすごく孤独らしいので…。

 

Yukiさんとやりとりしましたら、HSPの人でもIFを持つ人は少ないようです。彼らの存在がどれだけ精神面の救いになってくれるか考えたら、非常に厳しいだろうな、とは思いますが。

 

でも、努力して獲得するものでもなくて、ふと気がついたら「いる」存在なので…。そのへんがどうなんでしょうね?空想と創作が好きな人なら大人になってからでも持てる可能性はあるかもしれません。

 

私は自分があまり自然なんで、これってわりと最近まで普通のことだと思っていました (^_^;) 

 

この先も生きている限りずっと絵を描き続けるつもりなので、彼らとも死ぬまで一緒にいれると思っています。死ぬ時は解放だから、そのままどこかの空間に残るのか霧散するのかわかりませんが、いつかどこかで波長が合う人に出会ってくれるといいなあ、とちょっと思います (^_^;)

 

 

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このイマジナリー・フレンド関連のことはもっと研究が進めばいいな、と思っています。うまくいけば自分なりにコントロールしやすい方法が見つかるかもしれませんし…。最低限の薬でバランスが取れるようになるといいなあ、と願います。

 

ホント言うと、精神疾患で悩んでいる人たちにIFがいれば、もっと楽に生きられるのに、とはよく思うんですよね…。

 

 

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現実の「共感」と内なる「共感」に救われる

 

★2017年1月21日の記事の再掲です

 


介護の「共感」に救われる

 

昨日はいつもの看護師さんが弟のところに上がる前に、私のところに来てくださったので、しばらく話をすることができました。

 

それで看護師さんに「家族としてお母さんにしてあげられることは十分してあげてますから…」と言われて、ちょっと気持ちが楽になったみたいです。

 

この程度でいいの?とずっと自問自答していたから…。そうか、いいのか…(^_^;)…よかった。

 

どうしても父の時の介護と比べて「足りない」気持ちが大きくて、でも一人ではできることって本当にわずかしかなくて、母に申し訳ない気持ちもあって、だから苦しかったのかもしれません。共感を欲していたんだなあ、と改めて思い知る…。残念ながら、介護ばかりは実体験のある人にしかわからない部分があるのですね。そこはどうしようもありません。

 

看護師さんも同世代だけあって、お父さんが入院されていると聞きましたし、そのへんがね、やっぱり同じ場所にいる感じかな?「家族としてできることは限られてるしね…」ということで、プロでもそうなんだから、私なんかどうしようもないなあ、と理解して納得した次第です。

 

難しいことですが、「親の介護」という課題にこの先ぶつかる人も多いと思います。やっぱり癒されるのは共感なんだね。その時が来たら、同じ立場で悩んでいる人に打ち明けるのがベストだと思います。解決策がなくても、共感だけで癒されるんだなあ、と思いますし…。

 


鼻のチューブが取れたら楽になると精神科の先生にも言われたし。違和感があって気持ちが悪いからあんまりしゃべってくれないのかも、とのことです。胃ろうのタイミングは先生にお任せするしかありませんが…。


でも気がかりの一つがちょっと改善された感じで、私も少しずつ浮上しています。こういうのって外的要因が結構あるんだね。

 

 

 

私でも爆発することはある

 

訪問看護師さんは私がわりといつも穏やかだと思っておられると思います。

 

でも過去に何度か爆発したことがありました。人目もはばからず大泣きしたことが2、3度。

 

まだ母が元気だった頃に、弟がアルコールの離脱症状で癲癇を起こしました。最初の頃はこの癲癇が離脱症状だとはわからなかったんですよね。(今はわかったので、予防的にもデパケンをもらっています)救急車で病院に行った時に、その時の救急担当の看護師さんがね、アルコール依存に対して誤解があったのか、理解が足りなかったのかわかりませんが、普通の病気の患者さんに対する扱いと全然違うのですね。

 

弟は治療が終わっても神経に影響してるのか何か、自分で動けないんですね。母と二人で180センチ以上ある大きな男をどうやって表に連れ出したか記憶がありません。タクシー乗り場まで行こうとするけど、そこまで動けなくて、マイクロバスの乗り場の椅子に座り込むし。

 

どうしようもなくなったんですが、私はそこで目眩を起こして、通路の石畳に倒れて起き上がる気力もなくなりました。屋上から飛び降りようかと思いましたが、屋上は施錠されてるのもわかってるし。もう倒れたまま、どうしようもなく情けなく悔しく悲しくなって、そこで号泣。

 

 

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まだ夜の9時前だったので、人通りも多かったですし、母がおろおろしているのもわかっていましたが、もうモブとかそういうのもどうでもいいやー!と思って、しばらく気がすむまで数分くらい泣き続けていました。「見られて恥ずかしい」とかいう気持ちって全然ないんです。「これは自己防衛だ」って頭のどこかが納得しているのがわかりました。

 

弟が立てるようになるまで、起き上がる気になりませんでした。で、気が済んだらスッキリした。

 

思い出してもいまでも恥ずかしい感情なんてないんですよね。生きてるからそれでええやん!という開き直りみたいな感じで。以後も本当に堪えきれなくなったときは人前でもかまわず大泣きしています。こんな時にプライドなんてどうでもいいや、といつも思う。助けてくれない他人の視線なんかどうでもいいや、とも思うし。

 

 


いつも救いのイマジナリー・フレンド

 

私のそばにはいつも第三者的な別の視線と視点が存在しています。

 

それは10代のころから大事に育ててきたキャラクター=イマジナリーフレンドであり、もともとは私の中にいたのであろう彼らの視点を借りることによって、あれはどういうのかな?一種の演技に近い感じで「いま泣いてもいいから」と言われている気がするのですね。

 

解離ではないのは、いついかなる時でも主体である私が中心に存在していること。「自分がいなくて別人格がある」ことはまったくないのです。だから必要な時間が経てば彼らの存在がちゃんと現実の私に戻してくれる。非常にありがたいものだと思っています。

 

 

 

私の身近なキャラクターたち。

 

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本当はずっと物語が存在するから、すごくたくさんの老若男女のキャラクターが存在するんですが、代表的なものだけ(^_^;) もっと理性的なキャラもいるんですよ。

 

 

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いまはもう漫画は描かないですが、すべてのキャラクターに生まれ育った背景も性格もちゃんと存在するんです。

 

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言ってもせんないことですが、彼らの物語をきちんと描いてあげられない私の力不足が悔しいです。

 

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ああ、でもこの共感はやはり同じように大人になってからでもイマジナリー・フレンドと一緒にいる人にしかわからないだろうな、というのもとっても残念。

 

彼らがいるから、私はひとりでも孤独を感じないでいられるのです。

 

詳しく知りたい方はYukiさんのこれらの記事もお読みください (^_^)

 

 

susumu-akashi.com

 

 

susumu-akashi.com

 

 

susumu-akashi.com

 

 

 

 

 

 

パパ、ありがとう

 

2006年の1月から2009年の10月まで、父の在宅介護をしておりました。

 

脳梗塞がもとで半身付随、寝たきりで身障者1級、さらには胃ろう、という父でしたが、介護と医療のプロの方々の手を借りてなんとか在宅介護をやり遂げました。

 

父はずっと死ぬのを怖がっていた人で、元気なときからよく丹波哲郎さんや江原さんの本などを読んでいました。自分なりに死後の世界を知りたいと思っていたと思います。

 

そういう父なので、胃ろうを造設するときも迷いませんでした。明確な介護の目的ができたので、私にはやり甲斐がありました。大変でしたけどね…。

 

もう8年前になりますが、父の死の前後で私が感じたこと、思ったことなどを書き留めてあったので、ここに改めて転載します。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下、2009/10/19の記事

 

父に対しては精一杯のことをしてあげられたので、「ああすればよかった」という後悔は全然ありませんでした。その意味では本当に私は幸せな子供だと思います。

 

 

9月末に退院した時点で「遠からずまた胸水が溜まることがあると思います」と言われておりましたので、すこしずつ覚悟のようなものをしていたかもしれませんし、素人介護の限界を感じていたのも事実ですが、やはり家族の心境としては一日でも長く一緒にいたかったです。

 

10月7日に先生が採血して帰られましたが、その時点で父の心不全の状況はかなり悪く、普通は138までという標準値がその10倍の数値になっていたそうです。長年の不整脈などの影響で、のちに聞いたことによりますと、父の心臓はすでにぼろぼろのようだったらしいです。そもそも脳梗塞の原因が心房細動により出来た血栓が脳に詰まったものですし。

 

酸素吸入を受けて、いくらか呼吸が楽になったような父でしたが、13日頃から徐々に尿の量が減り始めていました。それ以前に緩下剤を飲ませてもまるでお通じがないなあ、という状態がしばらく続いていましたし。13日の午後以降、尿取りパッドで確認出来る尿量がないため、先生が導尿チューブを入れて、尿量の確認をすることになりました。が、14日は500ccにも満たず、15日は100cc前後という極度に低い数値だったため、腎臓がかなり弱っているということは容易に推測出来ました。

 

並行して血圧が低下傾向にあり、脈拍がかなり少なくなりつつありました。そのために時間外に看護師さんに何度も駆けつけてもらったり、先生にも往診してもらったり、ケアマネEさんは3日連続で詰めていてくださいました。「いいかげんな介護の家族だったら、こんなに私も真剣にはなりません。ご家族が頑張っているから、私も最大のお手伝いをしたいと思ってます」とEさん。Eさんには本当に親身に相談にのっていただきましたし、本当に悩みも愚痴もなにもかも打ち明けていました。母は「もう家族と同じだと思ってる」と言いますし。

 

15日の早朝、血圧がかなり落ちました。話しかけても反応がなく、体温も低いようです。往診に来られた先生の顔もかなり深刻です。実はこの時、父は一度三途の川を渡りかけて戻って来たようです。私も半分くらいは覚悟を決めていましたので、冷たい父の頬にぴったりと自分の頬をくっつけて、手を握って耳元で話しかけていました。もちろん涙がぼろぼろです。母も弟も一旦は父に別れを言う覚悟でいたようです。

 

けれども父の生命力というか、精神力は誰もが感嘆されるほど強かったようで、私がぴったりくっついているうちに、体温も血圧も戻ってきたんですよね(^^;) お昼頃には何度かくしゃみも出ましたし、しっかりと眼を覚ましてもいましたし、「これはもしかするとまた回復してくれるのかも…」とその日はみなで喜んだんですが…。

 

ちょうど10月13日が55回目の結婚記念日だったから、母が「いままでありがとう」などど言ったため、看護師さんに怒られていました(^^;)「お母さん、そういう、いまにも死にそうな相手に言うセリフを言うたらあかん!そういう時は『60年目まで頑張ろうね』と言わないと…」と。

 

ケアマネさんにはすでに父のこの時の状態が驚異だったらしいです。すでに脈拍は30台に落ちていましたし、その脈ではっきりと意識があるのが信じられないことだったようです。しばしば吐き気が襲ってきて、痰だけではなく、濃い色の胆汁が出ます。とても苦しそうです。

 

看護師さんでもあるケアマネEさんの話で「尿が止まってしまうと、大体24時間以内」という深刻な状況にあることを示唆されました。母と弟、私と3人が交替で夜も見守りつる日が3晩続きます。さすがにそれだけ睡眠不足ですと頭も朦朧としてきます。けれども夜中に覗いても父は大抵しっかりと眼を開けていました。寝たきりになってからの父の目はいつも綺麗に澄んでいましたが、このあたりからさらに透明感を増していきます。

 

体調が悪いとか、酸素濃度が低いとか、そういう時には必ず上方固定していた眼ですが、この最期の2日間はまったくそういことにはならず、しっかりした知性の眼でした。

 

14日と15日の両日に父を訪ねてくれた人たちは看護師さんが6人、入浴サービスの人たちは会社ぐるみで入れ替わり立ち替わり仕事の合間に尋ねてくれて、父を励ましてくれます。事務所の全員が来られましたので、20人近かったですね。多い時には看護師さんが4人、処置に来られてました(^^;) かかりつけの先生は超多忙の診察の合間を抜けて、一日に昼夜を問わずに5回も往診してくださいました。

 

うちの前が自転車とミニバイクで一杯になります。うちの事情を知らないご近所さんが「何事ですか?」と驚かれてたようです(^^;) こんなに多くの人に愛されていたんだなあ、と思うと素直に感動しましたし、感激もしました。ものすご~く嬉しかったんですね。「お父さんとお母さんの人徳ですね」とも言われましたが、確かにそうだな、と思いました。

 

 

普通、父のような病人ですとそばで話していることが理解出来ないばかりか、意識がないのが普通らしいんですが、どうも父にはすべて聞こえて、すべて理解出来ているらしい、という確信が生まれました。父のまわりで関わる人たちや親戚たちの話の内容で、自分の死期が近づいていることをはっきり理解していたようです。そばで看ているとそういう話の内容で、父がパニックに陥り、それで余計に呼吸も乱れていることがわかってきました。「パパ、頭がクリアー?」と尋ねると「うん」と微かな返事。

 

なにしろ死ぬのが怖い人ですから、そういう風に怖がらせると余計に可哀想ですしね~。15日の夜から16日の朝にかけて、父を落ち着かせたい、と思ってそばで手を握っていた私の口から「魂の眼が開いたね」という言葉がするっと出ました。父と対峙していると自分が言っていることが真実だ、という不思議な確信がどんどん強くなってきます。特定の宗教も、なにも関係がない美しい世界のことが私の頭にもクリアに見えてきまして、それをそのまま伝えればいいんだな、と思いました。

 

夜中にお腹が微かに鳴る音が聞こえました。空腹のような音です。父が微かな声で「ごはん…」と言いました。とことん生きようとしていたんだと思います。「先生に許可をもらってからにしようね。吐き気があると苦しいでしょ?」「うん…」すでに胆汁が出るようになってからはPEGにはなにも入れていませんでした。苦しいだけだと言われていましたので。

 

この夜、父はずっと眼を開けていました。閉じてそのまま眠ってしまうのが怖かったんだと思います。

 

「大丈夫。怖くないよ。私がついてるでしょ。ずっとそばにいてあげる。怖いことも心配なこともなにもないよ。私らはずっと一緒だよ。またすぐに帰って来れるからね。大丈夫。静かにゆっくりと息をして。リラックス…。リラックス。だいじょうぶ…大丈夫…。」…というような語りをずっと続けていますと、父はしっかりと視線を合わせて私の話を聞いてくれています。

 

母が「恭子がいいの?」と聞くと「うん…」という微かな返事…。本当に真剣に聞いてくれていたようです。

 

それを一晩中続けたかったんですが、哀しいかな、私の寝不足も限界にきてまして、母に交替すると母は父の手を握りつつ、ずっと静かな子守歌を歌っていました。明け方もずっとそうやって父を落ち着かせていて、弟にタッチして10分後、「呼吸が止まった!」という弟の声で母と私は飛び起きます。

 

 

1分ほどの呼吸停止。しばし見守ると再度呼吸再開。でも確かにわかりました。もうじきだな、ということが。弟が先生に電話して先生もすぐに駆けつけてくださいました。もうその時は数時間前までは強かった右手の力もすっかりなくなり、口が動くだけの息にならない呼吸が何度かあります。「下顎呼吸やね」と先生。「多分もう1,2回」。母と私が父の両頬にくっついて、もう出てくる言葉は「ありがとう」しかないんですね。父は母と私のことが心配で、ただただ精神力のみで頑張ってくれていたんだと思います。「私、これからも頑張るから!心配しないで!」と言った他はひたすらに「ありがとう」ばかり。世話させてもらえて嬉しかったよ、幸せだったよ。いい人にいっぱい会えたよ。いままでありがとう。ありがとう…。

 

先生の言葉のとおりに父の呼吸は静かに止まり、その後再開しませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

しばし後に最初からずっとお世話になっていて、父が最も信頼していた看護師のAさんが同僚のSさんと二人でエンジェルケアに来てくださいまして、父もすっかり綺麗にしていただきました。お気に入りの大島の着物を着せてもらって、最期までずっと右手に握っていたくまさんのミニぐるみとお数珠を手に持って。

 

伯父や叔父夫婦、Eさんが来られて、葬儀の次第と役所関係の緒手続の相談になります。寝不足でぼーっとしている母と私に代わって、葬儀の詳細は叔父が主に細かく手配してくれまして、Eさんは私と区役所に。ぼーっとしている私を横に座らせておいて、とり合えず必要な手続き全部をやっていただきました。もう、Eさんの家の方向に足を向けて眠れないくらいにお世話になりました。

 

帰りのタクシーを待つあいだ、私がEさんに「ふと気がついたら今朝は私、精神安定剤とか、救心とかも飲んでなかったけど、不思議と全然動揺していないみたいです」と話すと、「やり遂げた、という気持ちの方が大きかったんじゃないですか」と言われました。きっとそうですね。生きているあいだに父にしてあげたかったことは全部出来たと思います。

 

帰宅しますと、葬儀社の担当の方が父のベッドまわりを整えていてくれまして、「いいお顔をされてますね」と言われます。エンジェルケアの直後には眼も口も閉じさせていただけたはずなんですが、気がつくと父の左目と口がうっすらと開いています。「このお顔はお釈迦様が入滅された時のお顔を同じだそうです。大変の徳の高い仏様ですね」と言われまして、それを聞いて、ああ、よかった、父は本当にいい所に行けたんだ…という安堵の涙が流れました。

 

父は私のスピリチュアルな迷いを断ち切るように、非常にしっかりした小さな奇跡のようなものをたくさん残してくれました。その意味でも私の充足感は大きいと思います。きっと寂しさはあとでじわじわくるんでしょうけれど…。

 

ここまでのことで私は充分に満足しましたので、お葬式はおまけだと思っていました。その「おまけ」でもまたいろいろなことがあったんですが、それはまた後日…。

 

 

 

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