こちらのサイト、小島さまの仏教サイト、というか、既成の宗教で言われていることと違って、魂も輪廻転生もあの世もありますよ。だから現世ももっと丁寧に生きましょう、というサイトなんですが(^^;)
この記事のコメント欄より引用させていただきます。自分が書いた文章なので、まあいいかなあ、と(^^;)
私にも真剣に祈ったことがあります。
友人の医師が海外での医療活動の時、紛争地帯で瀕死の重傷を負って生死の境を彷徨っている時に、ここにいてもなにもできないから、ただ必死で祈っていました。
特別な神仏への信仰を持たない頃でしたので、誰に祈っていいのかわからず、結局はその方の亡き御家族と宇宙そのものに。
祈りは通じたようですが。
あと、生まれた時からずっと一緒に暮らしていた甥、現在は他府県におりますが、消防隊員をしています。
レスキューも救命救急もやるので、コロナ禍のひどい夏などはもう本当に無事でいて欲しい、でもひとりでも多くの方の救命に尽力して欲しいと矛盾を抱えつつも祈っていました。
私利私欲なのか、もっと大きなものなのかわかりませんが、私自身が隣にいることもできず、手も貸せず、なにも出来ないから気がついたら祈っていました。
自分の力のなさをあれほど痛感したことはありませんでした。哀しかったです。
本当は彼らの隣にいて、協力したいのに、どうして私は動くこともかなわず横になっているんだろう?と悔しかったです。
やがてそれは私には私なりの別のお役目があるんだな、というところに至りましたが。
でもきっとこの先も同じような場合は祈らずにはいられないと思います。
普段は彼らの日々の健康に感謝して幸せでいて欲しい、ただそれだけを願うものです。
これらの祈りの時はまったく時と場所を考えていませんでした。ただまったく落ち着けずに部屋の中をうろうろしていて、そうだ、こういう時こそ祈ればいいのかもしれない、と思ったら自然と祈る姿勢になっていました。
毎朝早く、まだ夜が明けぬうちから、神棚にお水を供えて、手を合わすのは非常に気持ちがいいです。この早朝の静寂の中ではもっとも神々との近さを感じます。
私はいつも本当の神社仏閣の前で手を合わすと、なぜかいつも頭が真っ白になってしまい、ただ感謝の気持ちしか出てこないで、なにかを祈るというのがほぼ不可能になるんですが、あのタイミングはあまり私には合っていないのかもしれないですね。他に人もいますしね。人払いしてくださってもあまり変わらない感じです。
不思議だなあ。みんな微妙に距離感が違う。私自身が真摯なほど神様に近い感はありますね、やっぱり。